【専務のひとりごと vol.4】日本人とお米 〜江戸時代編〜
日本人にとって、「お米」は本当に大切なものです。
それは現代日本だけではなく、歴史的にも同様に重要なものでした。
今回は、江戸時代から、お米に関連する面白いお話を一つご紹介しましょう。
小学校の歴史でも習いましたが、江戸時代、農民は作ったお米の半分以上を、年貢として、大名や幕府などに納めました。それらの米は、もちろん食糧として主に利用され、食糧以外の用途としても、自身の生活費のために「換金」されたりもしました。
大阪では「堂島米市場」にて、お米の売買代金などが決められました。
ここでは、収穫前に米の売買代金などが決められるなど、世界で初めて組織的に「先物取引」が行われた場所としても有名です。堂島米市場の跡地には、現在、市場の象徴として「大きな米粒」のモニュメントがあります。
先述の通り、食糧としてだけではなく、生活していくために換金する必要があったことから、「お米の価格」は身分を問わず非常に重要なものでした。お米の価格が上がれば、米を持っている人は得しますし、価格が下がると見たら、いち早く売ってしまう必要が出てきたことでしょう。(もちろん、相場を読んで、逆張りする人もいたことでしょうね)
堂島米市場で決められたお米の価格は、極めて重要な情報であり、大阪以外の地方においても、米価情報を“一刻も早く”知る必要があったのです。
さて、ここでクイズです。
現代のようにインターネットや電話のない時代。彼らは、どのくらいのスピードで堂島米市場の情報を手に入れていたのでしょうか。またそれはどのような方法だったでしょうか。
江戸時代は、馬もいましたし、駅伝競技のルーツとなった「飛脚」もいました。
(ちなみに、飛脚は江戸から大阪まで「約3日間」で、手紙を届けたそうです)
では、答え合わせをしましょう。
驚くべきことですが、大阪で価格が決定した後、
「奈良で3分後」「岡山で15分後」「広島で30分後」
情報を入手していたそうです。
これは、驚異的なスピードですね!
米価の伝達手段には、手旗信号や狼煙などを使ったとのことですが、人に盗み見られても良いようにフェイクなどもかけていたそうです。ホント細かいところまで徹底していますね(笑)
今年、米の値段が過去類をみないほどの急騰となり、「令和の米騒動」とメディアでも多く報道されています。現時点においては、多少の変動はあると思いますが、今年は大きく値を下げることはなさそうです。
約10年前に、パンの購入額がお米の購入額を上回って以降、お米は日本の主食の座から陥落することとなりました。しかしながら、直近のお米に関する状況や報道などを鑑みますと、「やはり日本人にとってお米は、非常に重要なことに変わりはないな」と強く感じております。
縄文・弥生時代から脈々と続く、日本独自のお米の伝統と文化。
黄金の稲穂が、豊穣の鼓動と自然と人々の絆を紡ぎ出す、日本の原風景。
一粒一粒に宿るご飯の甘みが心にも染み渡り、笑顔で幸せ刻む、家族団欒の食卓。
日本人の“心”の主食。お米。
生産者たる私たちは、改めて「お米づくり」を大切にしていきたいと思います。
(専務取締役 伊藤啓一 2024年10月11日)