舞台ファームの歴史シリーズ③〜歩みはじめた茨の道「安定供給」という神話〜 

株式会社舞台ファームの歴史を紐解くシリーズ。前回に引き続き舞台ファームの創業社長である針生信夫氏の創業秘話をお伝えします。

前回の記事では農家として当時珍しかった小売業者との直接契約を勝ち取り、「6次産業化」という言葉の無かった時代でいち早く販売ルートの開拓は信夫氏の行動力と既存のルールにとらわれない発想力から生まれたものでした。

■1988年 六次産業化に着手(量販店との取引を開始)

●立ちはだかる"新たな壁"

仙台市内の大型スーパーマーケットとの直契約を勝ち取り、市場を介さない新たな取引先を開拓した信夫氏ですが、すぐに大きな壁が立ちはだかります。

はじめて契約を勝ち取ったスーパーマーケットは信夫氏にとって取引継続が難しい相手でした。市場などの仲介はなく、取引経験も浅かった業界の事例なども少なかったため、生産農家は契約上弱い立場での取引となっていたのです。

天候に左右される契約

当時まだ生産者と小売が直接取引をする事が主流ではありませんし、「フェアトレード」などの概念も無い時代です。生産者と販売業者の直接取引は取引価格では大きなメリットがある一方で、取引で弱者と強者を作り出す仕組みでもありました。

特に「天候」は一番の敵だったと言います。雨や雪で来店客が少ないと見込まれる日には受注数が大きく減られました。保管の効かない野菜は廃棄するしかないため、骨折り損をする状況が度々発生してしまいました。

●「交通網革命」がもたらしたもの

また、同時期に起こったもう一つの外的環境の変化、それは「交通網革命」です。昭和62年(1987年)に「東北自動車道」が全線開通し、東北⇔関東の物流が活発になります。青果市場においては東北の農家と関東近郊の農家が競合することを意味します。

それ以前の市場価格は、地域の気候や災害などの収穫環境の変化により価格が決まっていました。例えば長雨の時期には全体の収量が減るため買取価格が1.2倍になったり、台風が過ぎると4倍になったりと変動します。

しかし、物流が整ったことにより東北地方が不作でも関東近郊が晴れていれば野菜を仕入れられるので、より競争力が高まりました。

小売店やユーザーにとっては品切れを起こさないというメリットがありますが、農家としては雨の日などの環境の悪い中で働くモチベーションが無くなってしまいます。「安定した取引先」を見つける新たな壁に挑戦する事となります。

交通網革命の影響

東北自動車道の開通は東北の物流・観光など産業振興に非常に大きな影響を与えました。(盛岡〜東京間は片道14時間→6時間に短縮。)
東北から東京の大田中央卸売市場などへの出荷量が大幅に増え、東北道沿線の工業団地化も進みました。現在でも東北の生命線的な存在です。

東北自動車道開通前後の輸送量比較
(NEXCO東日本)

■1990年 業務用卸をスタート

1990年、信夫氏が28歳になる頃業務用卸野菜の取引を開始します。当時は菌管理の関係から加熱調理をして使う野菜として販売し、現在のように衛生管理技術が発達していなかったことから生食野菜は行っていませんでした。業務用の野菜に着手したのはある「食品加工業者」との出会いから始まります。

●規格外の作物を買い叩く「加工業者」

ブロッコリーの収穫シーズンには、夜遅くまで暗い中収穫作業をしていました。暗い中で大きさまで判別出来ず大きなものから小さなものまで収穫し、市場に持っていきます。

市場にブロッコリーを持ち込むと決まっていつも規格外の野菜だけを仕入れている業者がいました。市場の規格はスーパーの規格に合わせて決められており、大きすぎたり見た目の悪い作物は引き取り手がなく処分するしかないので、二束三文でも引き取ってもらえるのならと、その業者に譲る事にしました。

市場では『おいしさ<見た目・規格』で価格が決まります。規格外(4倍ほどの大きさ)の商品は引き取ってもらえません。少しでもお金になるなら、とその業者に規格外のブロッコリーを譲っていましたが、その使いみちが気になった信夫氏は後日、引き取っていった秋田の会社を訪ねることにします。

なんとその会社は規格外となった大量のブロッコリーを集めて小さくカットして加工し、仕入れの10倍の値を付けて業者に販売していたのです。

規格外の野菜は実は宝の山だったことに気づきます。「加工までやればもっと稼げる!」と思ったと同時に農家が加工技術をもって、工場を持ち、販路を持つには人を雇う必要となります。

●「生産だけでは稼げない」"鳥の目"の重要性

一大農業会社として若手に指導する機会も多くなった信夫氏。一次産業である農家が稼ぎを生み出す秘訣として針生社長は「鳥の目の重要性」を説きます。経営者は材料の調達/サプライチェーンマネジメント/出口戦略/全てを理解し、判断をする視野がなくては、判断を誤りたちまち会社は沈んでしまします。どうやったら高く売れるのか?どうやったら手元に多くのお金が残るのか?事業家としてまだ若かった針生社長も、この時代の失敗や経験からビジネスの基礎を身に着けていきました。

■「コンビニベンダー」の夢

●急成長の市場と、セブンイレブン

国内で最大の店舗数を構えるセブンイレブン。ご周知のとおり、舞台ファームは農業法人として唯一セブンイレブンのベンダーを務める会社です。信夫氏は平成2年(1990)頃から、業務用野菜卸(加熱カット野菜)に進出する傍らで、スーパーマーケット以外の取引先も模索していました。当時から急成長を続けていたコンビニ業界は多くのメリットがありました。当時の状況を振り返り、信夫氏は以下の様に分析していました。

当時のコンビニ業界

1、日本列島の出店戦略と成長市場
FC(フランチャイズ)のピラミッド型のモデルです。当時のビジネスアナリストはコンビニ市場は日本で3万店(等間隔で500mおきに出店される)と言われており、コンビニ各社はFC展開を急ピッチで進めていました。

2、全国一律・同一規格
コンビニは、全国どの店舗でも同一のクオリティの商品が手に入るようなサービス・商品設計をしています。当時は全国展開の大型スーパーマーケットも少ない時代ですから、地域ごとの特色を生かしたスーパーマーケットがそれぞれの規格をもっており、納入業者はカスタマイズする工数が発生していました。コンビニの場合は1つの規格に合わせて全国規模でスケールする事が出来ます。

3、同一単価、納品価格が安定している
24時間営業のコンビニでは基本セール等を行わず、納品価格が安定していました。(閉店時間のあるスーパーでは割引して捌き切る) 前述のように天候によってキャンセルが発生する取引に嫌気が指していた信夫氏はとても魅力的な業態だと見ていたようです。

セブン・イレブンの店舗数推移
セブン・イレブン全FCの売上推移

農業で稼ぐ仕組みとしてなんとかコンビニ業界、特にセブンイレブンとの取引が出来ないかを市場分析しチャンスを伺っていました。しかし、農業会社とコンビニ業界との取引は現在でも舞台ファームを除いて前例がなく、容易な事ではありません。日々の業務に追われながらも入り込む方法を考えていました。

続く


次回、舞台ファームの歴史シリーズ④〜法人化、農家から農業会社に〜 では大手コンビニベンダーとの取引開始の経緯と舞台ファームの創業に至るストーリーをご紹介します。お楽しみに!

▷出典/引用

・NEXCO東日本 HP
https://www.e-nexco.co.jp/assets/pdf/activity/agreeable/08a/tohoku_exp30.pdf

・㈱セブン-イレブン・ジャパン 企業情報 > 売上高、店舗数推移
https://www.sej.co.jp/company/suii.html

※本記事は現存している資料及びヒアリングを通して作成しておりますので当時の状況とは異なる可能性もございます。


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